
2018
MOON LIGHT BULB 月球燈

我每天晚上騎腳踏車運動。騎大村鄉裡幾公里回來。那時經常看到這人家大門的月球燈。我來台灣已經9年也現在才發現了這個東西的美感。月球燈几乎象徵家庭圓滿,亮亮地發展。越大越大發展。是人家的願望。台灣家庭是大家庭制。過年時大家都回到自己的家鄉。過年時候家人都回來一起盛宴。
這樣是理想的,可是在日本這樣的家越來越少。我們家也只三口。所以貢獻給小子化了。這裡的月球燈是6座。一個門是左右兩個。所以象徵三個門。過去,現在,未來的三個門面對面對待。我們可以去時光旅遊。大村鄉風景裡的月球燈讓我思考神秘的異境。
台湾の田舎でよく見かける月球燈を展示会場に持ってきて、花壇(地名、大村郷の隣の町)のレンガ工場のレンガの上に置こうと思いつきました。花壇のレンガ工場もだいぶなくなったそうですが、台湾中部ではここでしか作ってないそうで、喜んでくれた人もいました。毎日自転車で夜走る路ではたくさんの月球燈が見られます。ロバート・ワイアット(ミュージシャン)を聴きながら走ると本当に涙が出るほど、感動します。現地の人はあまりこの美しさに気付いてないようです。なんで自分はここにいるのだろうかと、時々我を忘れてしまいます。本当の月を見上げながら、またゆっくりペダル踏んで、家に帰る、そんな大村郷の夜のサイクリングが大好きです。ちなみになぜ六個なのかというと、門が三つあるという意味です。月球燈は門の左右についています。三つの門は現在、過去、未来への入り口と考えました。この中に入り、みなさんの現在、過去、未来について思いをめぐらせていただけたら幸いです。
FEAST
在中國,我看到了很多石窟。每個石窟裡都會有只有洞穴(窟)的。沒有佛像的。或只有頭部被刮掉的,或有佛像存在過的痕蹟的等等。可以考慮到有諸多原因,比如說被異教徒摧毀的,被日軍摧毀的,被共產黨摧毀的,被村民自己搶劫的等等。這段經歷對我來說非常震撼,令人難忘。後來,在中央美術學院時候,我做了“亞當的便器(小便斗)”(2001年),用北京的老木頭來做的作品。這是大約190cm的紅色小便斗,凹的部分可以為我的身體可以坐著寫盤腿。凹痕我不在坐那位置時候更增加了它的存在。那之後,做了有些在其中有東西存在的作品。 “Adamnalu(亞當成)”(2003)就是一個例子。
這次,在“Feast(盛宴)”當中,有透過觀察彰化縣大村鄉路邊的“土地公”的刺激,以容器為“裡面沒有東西”和“裡面有東西任” 放在一起,這我試圖表達“不在那裡”的重要性。裡面的東西和從容器中伸出來的東西只是裝飾品,我認為重要的是“沒有東西存在”的。這與[看不到它]一樣的。這可能是“它有在,可是看不到”一樣。對於人類來說,看不見的東西是很重要的,我認為氧氣,愛,人類精神,心靈,情感等都是看不到的。 就是人本身同等。(儘管具有諷刺意味,輻射也是用眼睛也看不見的。)在我看到的“窟”或“土地公”或是”百姓公”中,我感到上帝的缺席。上帝現在“在這裡不在”這樣,“肯定會留在”其他地方,但它似乎導致了“我希望您留在這裡”的願望。這是人類因心理學而更渴望的東西。這就是為什麼更加意識到它存在的理由。在製作這個容器時,我認為諸如有意識的燈光,顏色,透明度以及僅用螺絲組裝等元素是使內部空間更加牢固的因素。我覺得多彩的空間和無色的空間之間的區別也是必要的。這紅色的光線是代表在大村的夜晚最美麗的人家民宅窗戶裡看到的光。我認為可以更多的創造各種條件。我認為各種條件是每個人之間的差異。每個人都是獨一無二的。
中国では、たくさんの石窟を見ました。どの石窟にも、仏の無い窟(窟屋)だけのものをたくさん見かけました。頭だけ削ぎ取られたもの、身体ごとないもの、仏のいた痕跡のあるものなど、様々です。異教徒によって破壊されたもの、旧日本軍によって、盗掘、破壊されたもの、共産党によって破壊されたもの、村民自身によって盗掘されたもの、など様々な原因が考えられます。その体験は私にとってはとても衝撃的で忘れられないものとなりました。その後、中央美術学院で、「アダムの便器」(2001)という作品を作りましたが、その便器の内側の凹みは、ちょうど自分の身体が胡坐をかいて座れるようにできています。その凹みは自分が居ないことで、存在感を増していると感じました。その後、いくつか中に「居る」作品も作りました。「アダムナル(成る)」(2003)はその例です。今回、この「Feast」では、台湾彰化縣大村郷の道端の「土地公」たちを見て刺激され、その入れ物に何も「居ないもの」、と「居るもの」を共に置くことで、この「居ないこと」の重要さを表現しようと試みました。中に入っているもの、容器からはみ出しているものは、ただの飾りで、「何も入っていない」ことこそ重要だと考えました。それは見えないことと同じで、「居るのに見えない」ということかもしれません。人間にとって、目に見えないものこそ重要で、空気、愛(感情)、心(精神)、音楽(音)などは、人間の存在そのものだと思います。(皮肉ですが、放射能も目には見えないものです。)私の見た「窟」や、「土地公」では、神の不在を感じてしまうわけです。神は今ここには「居ない」だけで、確実に他の場所に「居る」のですが、「此処に居てほしい」という願いにつながるような気がします。それが人間の心理で、より欲してしまうということなんだと思います。だからこそ、より強く存在を意識するのだと思います。この入れ物を作るにあたり、意識した光、色、透明感、ネジのみでの組み立て、などの要素は、中の空間をより強くする要素だと思います。色のある空間と色の無い空間の違いも必要だと感じました。さまざまな条件を作り出せるように思います。そのさまざまな条件こそ、人間一人一人の差異だと思います。人間は誰でも唯一無二の存在なのです。
Feast (Brain)
金属片、木頭、壓克力板、螺絲
H25×W27×D16㎝
Exhibition at La Forma No.14, Tokyo 3/9~3/21
第12回桐生市有鄰館芸術祭
376 ART Biennale
2018 10/5~10/21
「月下氷人」 1992年制作
第12回桐生市有鄰館芸術祭
376 ART Biennale 2018
10/5~10/21
「耳の中の森」 1996年制作
第12回桐生市有鄰館芸術祭
376 ART Biennale
2018 10/5~10/21
「水路」 1997年制作
第12回桐生市有鄰館芸術祭
376 ART Biennale
2018 10/5~10/21
「神の水抽水システム」 1997年制作
冬眠4 Hibernation 4
27.5×23.5×10cm
牛樟、鉄片、螺絲、檜、防水能
第九屆國際袖珍雕塑展 台藝大展
2018年11月06日(二)~11月18日(日)