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2017

 活在此處「ココニイキル」   

吉田敦個展     

弘光科技大學藝術中心   

5/17~6/19     

吉田敦展 [ 活在此處 ココニイキル] 

 

    這世界是自然物和人造物一起存在的混沌世界。人造物的比率越來越多,自然物(神造物)生存下去也越來越困難。我每天跟著狗散步時候所看到的風景全部有人類的介入。街,巷,水溝,田,河,山,天空。人類改掉了全球的風景和其他動物的生存方式。我們每天排出來的垃圾是變成新風景的重要角色。大自然的漂亮風景中突然出現一大推垃圾谷也已經不在乎。垃圾也是風景區的一部分了。這也是我們要承認的現在世界的事實。我每天在看我住的彰化縣大村鄉。我現在生活在此處。所以我作品中需要這裡的東西。是我腦袋裡的虚構和這裡的現實要結合。用刀子刻出來的東西是假的。可是在這裡撿來的東西是真實的。它有故事和歷史。我想要我的時間和這裡的時間一致。我做這些作品後我可以融合到此處。是這展覽中可以看到的檳榔樹,白色陶瓷產業廢棄物,60公分的不良品木頭窗簾的材料,各作品照片的背景(變成廢處的加油站)等等,都是在這裡我發現的事實痕跡。有人覺得這些是不美。可是我每天看了後,我的美感也改變了。而且這些是以前的半生中沒有看過的。不久後可以成我人生記憶的一部分。做作品的行為是刻進去記錄到我的記憶裏頭。就透過做作品的行為好好相處這些人造物。因為人類產生了太多這些東西。已經沒有辦法完成處理掉的。也不能退回去沒有人造物的地球了。藝術家有權利提建議,意見。因為一直在訓練培養創造力。我們應該面對這些問題時該怎麼辦,用藝術家的創造力來呈現出來。這是我們藝術家該做的事了。像中世紀的藝術家們,現在的藝術家也要客觀地看此處(ココ)吧。有一天看過我家後面的水溝旁的工廠大量排出來有顏色的污染水。聞到很臭。聽說以前這裡的水很乾淨,水裡有很多魚。我覺得現在應該還來得及。畢竟我們住在這樣的世界裡,我們要改變看法吧。所以我想透過作品要告訴社會,傳達到社會。我們要立即改方向。

 この世界は自然物と人工物がともに存在する混沌とした世界である。人工物はどんどん増え続け、自然物(神造物)が存在していくのも難しくなりつつある。毎日、犬との散歩のときに目にする風景は、すべて人の手が介入している。街、通り、水溝、田、川、山、空、海。人類は地球の風景と、生物の生存方式を変えてしまった。毎日排出されるゴミは、新しい風景の重要な構成要素となった。人類は美しい大自然の風景の中に突然出現する大きなゴミの谷にもすでに気を掛けなくなった。ゴミも風景の一部分なのである。このことも我々が現在認めている世界の事実なのである。毎日私の住んでいる彰化縣大村鄉を見る。私は現在ここに生きている。私の作品の中に此処のものが必要なのである。私の脳の中の虚構と、ここに生きる現実を結合させたいのだ。鑿で掘り出す世界は偽の世界である。しかし、ここで拾うものは真実なのだ。それには物語があり、歴史がある。私の今までの時間と、ここでの時間を一致させたいのだ。これらの作品を作った後、此処に融合できるのだと思う。それは、檳榔の樹だったり、白い陶器の産業廃棄物だったり、60センチの木のブラインドの不良品や、作品写真に写りこんでいる背景など、すべてここで発見した事実の痕跡である。ある人にとっては、これらは別に美しいとかそんな次元のものではない。しかし、私にとって毎日目にする、これらの風景は私の美学を変えた。そして、今まで生きてきた半生には目にしたことのないものだが、しばらくすれば、自分の人生の記憶に加わるわけである。作品を作ることは、自分の記憶の中に記録していくことである。そのことを通して、人工物たちとうまく付き合うことである。人類はあまりにも多くものを生産してしまった。それは既に処理しきれなくなってしまった。すでに人工物の無い世界にはもう戻れないのだ。芸術家には意見を言う権利がると思う。なぜなら芸術家は常に創造力を研ぎ澄ませてきたからだ。問題に直面した時、どうしたらいいのか、芸術家の創造力はその役割を果たせるだろうと確信する。芸術家がやらなければならないことだと思う。中世の芸術家たちのように、現代の芸術家も客観的に「此処」を見なければならない。ある日、うちの裏の水溝のそばの工場から原色の汚染水が排泄されるのを見た。きつい異臭を嗅いだ。昔此処にはたくさんの魚や、スッポンが生息していたと聞いたことがある。私は、今、まだ間に合うと思う。こんな世界に住んでいるのなら、物の見方を変える必要があるのではないか?だから作品を透して社会に伝えたい。「すぐに方向を変えなさい」と…。

© 2018 by Atsushi Yoshida

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